4月28日に「植民地支配責任を考える─4・28『沖縄デー』集会」が文京区民センターで開かれ、駒込武さんの「台湾植民地支配責任を問い直す―帝国の狭間で翻弄されてきた人々の声に耳を傾ける」という講演があった。主催は沖縄・安保・天皇制を問う 4.28―29連続行動実行委員会。翌日29日には「沖縄・安保・天皇制を問う4・29デモ」を行なわれた。
これは、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約が発効した4月28日と戦争責任・植民地支配責任をとらずに延命した昭和天皇の誕生日であった4月29日。今日につながる象徴的な並びの日でもある。このことを記憶するためのものだ。
そして2024年は台湾出兵から150年だ。2024年3月には国際シンポジウム(国際シンポジウム「台湾出兵・牡丹社事件150年交錯する日台の視座」早稲田大学台湾研究所主催)が開かれ、いっぽう台湾での「牡丹社事件記念日」(5月22日)の記念行事では沖縄からも参加して追悼式がおこなわれた。
台湾出兵とはなんだったのか?あらためて考えてみたい。1874年5月に日本軍約3600が台湾南部に上陸して、先住民の居住地を掃討した。出兵の理由は1871年11月に台湾に流れ着いた琉球島民が54名殺害され、1873年3月には岡山の漁業者4名が強奪にあった。それに対して加害先住民を懲罰し安全確保の措置を講ずるというのものである。
しかし、この軍事行動は直前に中止が要請され、それを無視して行動されたこと。軍事により占領し既成事実化して外交を無視していること。そして、明治維新で発足した近代日本国家の初めての国外での武力行使だということである。これらの事実に着目しよう。さらに重要なのは琉球が日本の主権下にあるということを示したことであった。むしろ坂野潤治によれば、それが出兵の目的だという(『日本近代史』ちくま新書2012年)。
具体的にみておこう。事実関係などは『台湾出兵』(毛利俊彦中公新書1996年)による。1871年から2年半たった1874年2月6日、大久保利通と大隈重信の連盟で「台湾蕃地処分要略」を答申して閣議決定された。 それは<出兵にともなう清国との外交問題の処理は「客」つまり副次的事項だと位置づけられた。軍事が優先し外交はそれに従属するというわけである><清国から抗議がきた場合に(略)交渉を引き延ばしておいて「討蕃撫民」の既成事実をつくってしまうのがいいとした><清側が琉球の日清帰属問題を提起してきた場合には(略)頭から交渉に応じないことにした。いずれにせよ外交による解決を期待しない立場であった>という。
そして遠征事業の長官に西郷従道(西郷隆盛の弟)が就任し、蕃地事務都督として<西郷都督の任務は、表面は「討蕃撫民」だが、実質は「フォルモサ島の一部を日本に併す」ことであり(略)歯止めは有名無実であり、必ず「植民」の姿、つまり領有へと進むにちがいないと>思われていた。
しかし当時の国際社会での新参である日本政府首脳は列強外交団にたいして必要以上に気を使っていた。英米公使の干渉により、遠征を一時見合わせとの指示があったが、西郷都督はそれに従わずに、大久保もまたそれを追認した。
<西郷都督は、出発延期命令に従わなかった、リゼンドル、カッセル、ワッソンのアメリカ人グループも強行せよと主張した(略)リゼンドルは西郷のために「蕃地」での詳細な作戦計画書を作成し、現地で「蕃地」懐柔に成功したら「これを分かちて別伍となさず、日本の内に編入するを要す」そうすればかれらは日本軍の「配下に帰す」と教示した>
リゼンドルの作戦計画は<「生播」(牡丹社)を孤立させ投降に導くこと>であったが、偵察中に遠征軍兵士が殺害されたので計画は破綻した。5月22日に「生播」地区境界で激戦を交えた。6月1日から5日にかけて牡丹社の本拠地を陥落させ、「生播」の抵抗は終息した。
遠征軍の損害は戦死12名、負傷17名だが、伝染病や風土病(マラリアなど)で全軍3658名のうち病死者561名という惨状を呈した。
当然ながら日本軍の台湾「蕃地」占領については、清国政府から抗議があり撤兵を要求した。9月には日清会談が開かれ、英国行使ウェードの仲介により10月31日に両政府は調印し解決した。
結局のところ当時の清国には台湾を占領した日本軍を排除できるだけの力もなかった。当初は、<殺害されたのは朝貢琉球国民であるから日本国民が被害を受けたとは思わない、台湾先住民は「化外」だから責任は負えない>という回答だったが、日本の武力占領により、遭難者への償金を支払い撤兵してもらうことになった。まるでヤクザが息のかかった者の被害について、居座り続けて金を踏んだくるようなものだ。
細かい説明は省くが、日清調印文書のなかに(琉球の)遭難者が「日本国属民等」であること、日本の出兵目的は自国民保護であること、清国の償金は(琉球)遭難者と遺族に直接手渡されるのではなく、日本政府に支払わせることとされた。そして<清側は、遭難琉球人は日本国民であると解釈できる協定にうかうかと同意したことで、琉球にたいする日本の統治権を国際的に認めた(略)この流れに棹さした日本政府は日清両属状態の解消を実現すべく琉球併合政策を着々と推進していった>。
この本では19世紀弱肉強食世界を生き抜くための日本という国家が、琉球・朝鮮そして清朝という華夷秩序の世界の国家との対決は不可避であるとまとめられている。現実の国際政治と世界の流れはそうであろうが、まさに台湾出兵とそれを起点とする流れは、日本が帝国主義としてアジアを侵略していった端緒であり、琉球を実質日本の支配下に置いた契機であった。その残響は朝鮮半島や台湾や沖縄で今も続いているのだ。そのことを忘れてはならない。(本田一美)
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